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2016年08月11日

村に来た旅の俳人に俳



小林一茶は信濃国の柏原村に生まれ、三歳のとき母を亡くした。祖母が一茶
をかわいがった。幼い時から畑作業の手伝いをした。
 八歳のとき継母が来た。関係はよくない。義弟が生まれ、継母との関係はい
っそう悪化した。
 十三歳のとき、句の手ほどきを受けた。
 十四歳のとき、頼りにしていた祖母が死んだ。闇夜に灯火を失ったような悲
しさだった。継母との関係はよけいに先鋭化した。気の弱い父は気の強い継母
にせがまれて、十五歳の一茶を江戸に奉公に出した。
 「江戸へ赴く村人に連れられて春の朝、出立した。父は牟礼まで見送ってく
れた。「毒なものを食べるなよ。人に悪く思われるなよ。しょっちゅう帰って
元気な顔を見せてくれ」。そう言う父の言葉に思わず涙が浮かび、未練の心が
わいたが、連れの人に笑われる。父に弱き歩みは見せないようにと無理に勇ん
で別れた」
 江戸ではあちこち渡り歩く苦しい奉公生活をした。その間に俳諧の勉強をし
て二十八歳のとき宗匠となり、翌年ふるさとに帰った。継母は一茶を歓迎して
くれた數學課程
 江戸に戻った一茶は、俳句修業のため30歳から36歳まで西国旅行に出た。
この旅で多くの俳人と知り合った。この後、15年間を江戸で過ごした。
 39歳のとき父の病を聞いて郷里に戻り看病したが、ほどなく父は死んだ。
      「父ありて明ぼの見たし青田原」
 父は一茶と継母・義弟との間に財産分けの問題が起こるのを心配して、一茶
のために遺言状を残してくれた。
 一茶はまた江戸に戻った。俳人生活を続けながら、信濃と江戸の間を往来し、
財産分与のことを継母たちと交渉した。結局、父の遺言状がものをいって一茶
は財産を分割してもらった。
 51歳の折、柏原に永住のため戻った。「是がまあつひのすみかか雪五尺」と
詠んだ。まもなく28歳の菊という娘と結婚した。まるで親子のような年の差で
である。一茶はうれしかった。
「我ときて遊べや親のないすずめ」は52歳の一茶が6歳当時の自分を回想して
詠んだ句である。
 幸せは続かなかった。54歳のとき長男千太郎が生まれたが、生後28日で死ん
でしまった。子どもは全部で5人生まれたが、一番下の子を除いて、上の4人は
みな2年も生きられず次々と死んだ。頼るべき妻も37歳でこの世を去った。
 繰り返す悲しみに、老いていく一茶は慟哭した。
 「痩せ蛙負けるな一茶ここにあり」は千太郎を失った年に詠んだものである。
 一茶の句は皮肉にもその不幸によって高められたといわれている。「痩せ蛙」
は一茶自身なのである。


Posted by 別摔在熟悉的路上 at 17:01│Comments(0)
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